しかしあれだ
チャールズ・ブコウスキーの
文庫
「死をポケットに入れて」
というのを
読んで。

あまりにかっこよくて。

泣きそうになって。
感動したところ
とか
何回か声に出して読んで。

うう。
すげーよ。
あんたすげーよ。うう。
なんてやってたけど。
もうほんと
愚図愚図して
そんで
カレー食って
ニコニコ動画5時間ぐらい見てたら
どんなんだったか忘れた。

頭がすごく
ぼやぼやする。

常に新しい一行こそが
次の更に新しい一行をつれてくる力を持っている。
みたいなところが
あって。

いや違うかな。
言葉を生み出すことで
言葉が生み出される。
だったか。
いや。
もうちょっと違ったかもしれないけど。

とにかく
かっこよかったのだけは
覚えてるな。

氏が
これ書いたの71歳ぐらいの時で。
なんという
みずみずしい感性だろうか。


思って。
思ったけど

よく考えたらそれは
最終的には
各々で好きなように書くしかない
というような
ことであり。

好きなように書けばいいんだったら
だいたい
この日記でも
別に苦しくて書いてるわけではなく
好きで書いてるわけで。

こうして
好きに書いてる文章で
生計を立てられないということは
それは
やはり
どこかに未熟な点。
いわば欠陥。
又は水準に達していない点があるからであって。
ということは。
やはり
そうなってくると
日々鍛錬するしかないのだろうねぇ。

ということになって。
どういうことが
鍛錬になるかというと。
やっぱり
一日数時間でも
本を読む時間
文章を書く時間。
コレを設け。
しっかりその間で少しでも技術の向上を
図るべく勤めるしか
これ。ないわけであり。
あ、あと
人のアドバイスを
ちゃんと聞くとかね。

そうなってくると。
ほうほう。
あっちの人はああいっている。
こっちの人はこういっている。
ほうほう。
文学を志すなら
まずコレを読めといっている。
ほうほう。
多くの人に認められたいのであれば
これこれこういう賞を取るのが近道である。
その賞をとるには
傾向を調べるためにその賞をとった作家の著作を読むべきである。
ほうほう。
この本は一人称である。三人称である。
だめだだめだ。
そんな書き方では。
こっちの意味とこっちの意味が
まったくつながらない。
だめだだめだ。
漢字の意味がまったく違っている。
このような場面では
もっとこういった
語句を用いるべきである。
ダメだダメだ。
物を書くときに
背筋がまがっている。
ダメだ。
街を歩くときはメモを携帯せよ。
常に社会や物事に対しアンテナをはっていよ。
ニコニコ動画を5時間見るな。

などと。
大変窮屈である。
そして
最終的にこの一行では
だめかな。
この一行は
もっとこう直すべきかな。
いや。違うな。
もっと違う。
違う
違う。
コレも違う。
これも違うし、これも違う。違う。
もっとすごいのが書けるはず
書けたはず。
書けるはず。書けたはず。
という風になって。

最終的に一行どころか一文字も書けなくなって
いや
もういいや。
というようなことになりうるのである。

だからこそ
もう一回ちゃんと
71歳になっても72歳になっても
そういうことが
ズバッとちゃんと言える
ブコウスキーおじいちゃんは
すごいなぁ
と思うのと
同時に
ものすごく勇気を与えられるのでした。

以上

では
最後にちょっとだけ
本文からの抜粋でお送りします。
「わたしは言葉を書き留めなければならなかった
さもなければ死よりももっとたちの悪いものに打ち負かされてしまうのだ。
言葉は貴重なものではないが、必要なものだ。」
チャールズ・ブコウスキー

寝ます
おやすみなさい